アントニオ 猪木

アントニオ 猪木は、日本の元プロレスラー、元参議院議員、事業家。本名は猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型


新日本プロレス創始者で元オーナー。愛称は「アントン」「死神酋長」。


日本のプロレス・格闘技の歴史を語る上で(猪木自身は、プロレスと>格闘技を区別することを嫌っているが)、力道山、ジャイアント馬場と並んで、多くのプロレスラー・格闘家に影響を与える存在である。


1960年4月11日にサンパウロで興業を行っていたYahoo力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。


猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。


力道山から掛けられた最初神奈川クリニック眼科の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。


上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという(後日談であるが、猪木の肉体は全盛期のルー・テーズにそっくりだったため、力道山もそこに目を付けたと言う。デビュー後に外国人トレーナーからもオファーが殺到したと言う)。


1960年9月30日、東京の台東体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。デビューはジャイアント馬場と同日である。


なお、リングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。


当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単に「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため洋風な名前にされたということである(本人曰く「アントニオという名前は日本で鈴木や佐藤という名前が多いようにブラジルではありふれた名前」とのことであるが、実は苗字レーシック 名古屋ではなくファーストネームであり日本でいえばヒロシやタケシ)。


なお、まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。


デビューしてからまもなくたって、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年12月15日に死去。


その後に初めて「俺は日系ブラジル人と言われてましたが、れっきとした神奈川県出身の日本人です。


力さんの付き人になってからは何時も力さんに殴られるので、このままでは馬鹿に成ってしまうと思って(日本プロレスを)辞めようと思ってました。


でも力さんが亡くなったので、これからは豊登さんに着いて行きます」と初めて日本人であることをマスコミに公表した。


その後の1964年に、アメリカへ武者修行へ赴く(この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった『リトル・トーキョー・トム』)。


地方巡業を中心に活躍して2年後に帰国。なおアメリカ時代にアメリカ人女性と結婚している。


日本プロレスを追放された後は新団体設立を画策し、1972年1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。


当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラーを多数招聘することが難しかったため、流血遺恨試合、釘板デスマッチなどの際物的な試合も多かったが、対戦相手の良さを引き出し、試合毎に成長させる猪木の卓越した手腕のおかげで、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなど外国人エースが育っていった。


さらに、WWFと提携してからは多数の外国人スターを呼べるようになり、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦など名勝負を繰り広げ、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。


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